自分の気持ちを言語化するためにはどうしたらいいのだろうか?気持ちが言語化できるメリットや、できないデメリットについて解説

コラム

「言語化」とは

気持ちを言語化するメリットデメリット

自分の気持ちを言語化するには

なぜ気持ちを言語化する必要があるのだろうか

言語化できていない人を、できるように成長させるにはどのようにしたらよいか

子供の場合、教えてあげることが大事である。言葉にしたくてもできない状態なのであれば、その気持ちを大人が代弁してあげる。「たいへんだったね」「このなかから四角形をさがしてみて?」など。
「これはなんていうの?」なんていわれても、わからないものはわからないから、答えに詰まってしまい、質問されるのが嫌になってしまう。
相手を試すような質問ではなく、知っていること前提で話しかけるような意識で話すと良いだろう。

他人から言われて気持ちを話すようでは「受け身すぎる」

能動的に自分の気持ちを話せるように
何を考えていて、何が欲しいのか

自分で相手に伝えられないと、人間特有の他人に伝えることができるということの強みを生かし切れていない

自分の好みや、嫌いなもの。自分が考えたこと、感じたこと。経験則などを伝えることをしていかなければ、その考えは他人にわかってもらえることなく自分の中で終わってしまう。

自分で考えたことを外の世界に触れさせていかないと、自分の考えがブラッシュアップされていくことはなくなってしまう。自分の考えがブラッシュアップされないと、一つの考え方でこだわることになってしまうので、頑固な人とか成長しない人、といったことになりかねない。

人類がここまで発展していくことができたのは、自分の子孫や仲間たちに、危険や知恵を継承していくことができたからである。なぜ、言葉というものができたのか。なぜ文字を発明したのか。なぜ絵を描くことや踊りで過去に伝えていこうとしたのか。
伝えていこうとした人には必ず始まりがあるはず。ある人が思いついて、それを継承しようと考えた。

誰もが、危険や知恵を生み出す始祖になることができる。その考え方を積極的に伝えていこうとしなければ、誰も知らない危険や知恵を自分の中に留めておくことになってしまう。それは本当にもったいないことであると思う。

自分ひとりで思いつくことは困難だと思うが、他人と話すことでわかることは多い。
古代ローマの哲学者たちは、広場に集まり、世界は何でできているかについて話し合っていた。話し合うことで、自分の考えの矛盾点や、相手の矛盾点に気づくことで、哲学者たちは自分の考えをブラッシュアップさせていった。あっているか間違っているかはおいといて。

例えば自分の感情において、言葉というのは、自分の気持ちを正確に表すことはできない。おおまかにその気持ちを表すものであって、みんながある程度共通認識として理解できるものになっている。

「悲しい」という単語一つとってみても、「悲しい」と表現するのは簡単だが、「悲しい」にはいろいろある。その人の背景、出来事もある。それを「悲しい」の単語一つで終わらせてしまうことはできないだろう。

しかも、「悲しい」と聞いて、イメージする光景も人により違うだろう。自分が悲しいのか、相手が悲しいのか、泣いているのか、相手を責め立てているのか、失望からくる悲しいなのか、怒りからくる悲しいなのか。大体は共通しているだろうが、細かなニュアンスは変わってくる。だから、大まかにしか表すことができないのが、言葉なのである。

自分の気持ちを言葉にしてしまうと、自分の気持ちに嘘をついているような感覚になる人も多いだろう。この言葉は正確ではないけどとか、わかりやすい言葉がないからとか、しっくりこないけど表現方法がこれしかわからない、等である。

表現にはたくさんの種類があるが、自分の気持ちを正確に言葉であらわそう、なんてものは無理な話だ。もし、自分の気持ちが正確に表すことができていると考えているのであれば、形式的な言葉に、自分の気持ちを合わせているだけだ。その言葉に対して、自分の感情を当てはめているため、その感情ぴったりだと錯覚している。

ただ、自分の感情は言葉で表すことができないからこそ、言葉で表そうと努力することは重要だと思う。なぜなら、それ以外に伝える手段はないからである。

「なんでこんなことをやったの?」と問われたときに、「自分はこのように考えたから、こんな行動をしたんだよ」ということを伝えなければ、お互いに成長していくことはできない。

気持ちを言語化できないことで、緊急ではない危険なことについて、周りに伝えることができない。

例えば、昔でいうなら、一年後に食べる米がないとか、遠くの山で大雨が降っているなどのことだろう。
会社でいうなら納期が間に合わないとか、先方の信頼を損ないそうな出来事が起こった。など。
すぐには影響がないが、将来的に悪影響が及ぼすことについて、「まあいっか」とか言語化できないために、緊急性を認識できないことが多々ある。

自分でできる、言語化能力を鍛える方法は「自分の中で疑問を唱える」ことである。ただこれは、自分で続ける精神力が必要なため、むずかしいかもしれない。

読書で自分の考えを言語化しよう。そのように考える人もいるだろう。

私は以前、「読書はしないべきである」というブログを書いたのだが、趣味で楽しむための読書は、やり方によっては自分の気持ちの言語化を阻害することになってしまうかもしれない。

自分の言語化できなかったものは経験として「なんとなく」といった形で表に出てくることはあるのだが、それは言語化とは言えないだろう。

言語化をするための読書には、その本の感想を脳内で思い浮かべるなり、読書感想文を書くなりするのがいいだろう。「自分はこう思った。」「ここが面白かった」など

小説の知識をうのみにする習慣がついてしまうと、身の回りに起こったことについて、疑問を持つことがすくなくなってしまう。疑問の持ち方がわからなくなってしまう。
疑問を持たず反対意見は言わないけど、なんとなく違うだろうなという斜に構えた感覚に陥ってしまうことがある。
小説の中でたくさんの経験をつんでいるため、相手の悪意に気づかず、「そういうこともあるよな」ですましてしまう。犯罪者の心理などがわかるようになるため。

気持ちの言語化だけでなく、知識の言語化ができるようになると、お金を稼げるようになる。
世の中には「いろいろなことを知りたい!」という欲求を持った人が、実は多くいます。そう。本を買って読んでいるそこのあなたです。
なぜ、本を買うのですか?それは知識を得たいからというのが、少なからずあるはずです。漫画にせよ、小説にせよ、自己啓発本にせよ。この書いているブログだってお金になります。インタビューを受けることができれば、謝礼をもらえることもあるでしょう。youtubeで発信したり、InstagramなどのSNSで発信してフォロワーを増やすこともお金を稼ぐことにつながります。

当たり前だと思われるかと思いますが、知識を言語化することで、お金を稼ぐことができるのです。

逆に、思考や知識を言語化することができなければ、人を育てることはおろか、お金を稼ぐことすらできなくなってしまうのです。

自分の思ったこと、考えていることを、外に発信できないだけでかなりのデメリットがあるのです。

ただ、本を出している人なんてごく少数でしょうし、ブログを書いている人も少ないはずです。知識を取り入れることばかりに夢中になっても、それを使うことができなければ、いずれ知識も錆びていってしまう。

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